2. *このプロジェクトの私の夢*〜にしやま〜
なぜ私、にしやまが障がい者に「好きな事」を仕事にしてほしいと思うか。
このプロジェクトを始めた頃、
その答えとなる以下のメッセージの趣旨をTSUBASAとKAGE-Pに伝えました。
2人もこの気持ちを受け止め、夢を持ってイラストを描いてくれています。
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私が31歳で脱サラして野良犬となったころ、
肺炎で入院したおじを看病した時期がありました。
おじは私が生まれたばかりのころに精神障がいを患い、
その後、30年以上ずっと病院で生活していました。
社会から閉ざされた空間で人生の後半を過ごしたことになります。
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私は大人になるまでおじの存在を家族から聞かされることはありませんでした。
親族に精神障がい者がいると私の将来に傷がつくと家族は黙っていたのでした。
私が子どものころ、
父親に連れられてたまに病院に行った記憶があります。
待合室で待たされていたような、
遠くで父親が誰かに会っていたのがおじだったと気づいたのも大人になってからでした。
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おじが肺炎になって看病しに行った時は数度目の対面でした。
おじは遠くに海の見える病室で静かに横になっていました。
私がどんな仕事に就いていたのかや姉のことなど、
我々家族の人生の歩みを陰ながら喜んでいたのを知りました。
退職したのも言えず、東日本大震災で避難していた家族のことを話し、
みんな元気していると伝えるとホッとしていました。
「やってほしい事があれば言ってください」
そう言って安心させようと努めました。
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ある日看病に行くとおじの両手がベッドに縛られていました。
ただ苦しそうに呼吸をしていました。
「水をくれ」と言われましたが、
「看護師に止められている」と断りました。
すると縛られた手を力づくで動かし、
ベッドサイドの棚の引き出しの中にある鍵を取るよう訴えてきました。
「家に帰らせてくれ」
どうしていいものか分からなくなりました。
暴れ出したおじに、
「何もできなくてごめんね」
と告げて慌てるように帰りました。
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看病に行くたびに病状は悪化しました。
酸素マスクの酸素量は増え、
反応も無くなっていき、
1ヶ月後に亡くなりました。
結局おじが訴えた「やってほしい事」を私は何もしてやれませんでした。
水も飲ませられず、家にも帰らせてやれませんでした。
閉ざされた空間で30年以上過ごしたおじに、
最後ぐらい外の世界で自由に好きな事をなんでさせてやらなかったのだろう。
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そのような後悔の念が障がい者に出会うたびに思い返されます。
だからロゴマークを依頼して手を挙げてくれた方々の作品を見た時、
「好きな事を仕事にしてあげたらこの子たちはどんなに喜ぶだろう」と思いました。
TSUBASAとKAGE-Pにおじの話をしました。
最初の作品が仕上がったタイミングでした。
家族にも存在を知られなかったおじの話をして、
逆に傷つけないかと恐る恐るでした。
でも「社会の隅っこで申し訳なさそうに生きるのではなく、
堂々と社会の真ん中の日の当たるところで生きよう」と伝えました。
そのためにも自信が必要で、
そのためにも自分の好きな事を武器にお金を稼ごうと伝えました。
2人は黙って聞いてくれました。
私は「この話をどう思ったか?」を聞きませんでした。
ただTSUBASAは次の作品のテーマを求め、
KAGE-Pはあらためてこのプロジェクトについて「挑戦したい」と言いました。
2人も夢は同じ。
やりたい事をやって自信を手に入れて、もっと広い世界を見てほしい。
これがこのプロジェクトに対する私の夢です。
2020年4月20日
にしやままさひろ